この「整理法プラス」をはじめるあたり、私は自分の追求したいと思うことをできるだけ純粋に追求していきたいと考えました。

しかしなぜ、私はそのように考えたのか?

自身や家族を養っていかなくてはいけない立場で、そのような好き勝手が許されるのでしょうか?

振り返ってみれば、10代の頃にはすでに独立したいと考えていました。

ただしそれは、いわゆる「功成り名を遂げたい」というようなものではなく、どちらかというともうすこし内向的な、たとえば雑貨屋を営むとかカフェを営むとか、そういった類の志向でした。

父が亡くなったことが直接的なきっかけとなり、私は私の道を歩むようになりました。

しかしその前の段階、10代の頃にすでにあった独立心というものは、一体、いつ、培われたのでしょう?

……またはこのようにも考えることができるかもしれません。

それは「培われた」というようなものではなく、単に自分にとってそっちが心地よさそうだから、というだけのことではないか? と。

つまり父は自営業を営んでいましたが、破天荒とまではいかないまでもある種の自由さを持った生活をしていて、それは小さな私に影響を与えたのかもしれません。

このような、家族単位での「刷り込み(imprinting)」とでもいうようなものは、それを構成する人々にたいして、どれほどの影響を与えているのでしょうか?

もちろんこたえはケースバイケースになるのでしょう。

しかし一例として、クリステンセンは「イノベーション・オブ・ライフ ハーバード・ビジネススクールを巣立つ君たちへ」という著書で以下のように述べています。

 これが、文化のとても強力な側面だ。文化は、自動操縦装置のようなものだ。文化が効果的に機能するには、自動操縦装置を適切にプログラミングする必要があることを、けっして忘れてはいけない。つまり家庭に求める文化を、自ら構築するということだ。

イノベーション・オブ・ライフ ハーバード・ビジネススクールを巣立つ君たちへ

このような考えにそってのべるのならば、我が家の文化は「人生は自由に生きるべきである」とでもいったものになるのかもしれません。

これは、ややもすると不謹慎な響きをあたえてしまうかもしれませんが、そういう意味ではなく、最初に書いたように、自分の追求したいと思うことをできるだけ純粋に追求していく、というようなニュアンスであろうと考えています。

ささやかな希望としては、その結果として世のために人のためになることができたならば、というものです。